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膠原病・筋炎患者の日記 というよりは雑記
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前回の記事で書いた違和感ですが、その後ご意見いただいたり見たりで解決しました。

単純な事で。
発想ネガティブなんです。春なのに。
ダメな場合前提なんです。春なのに。
木々が枯れて凍えたらどうするのか話してるんです。 春なのに。

おめでとうと言ったそばからなんだそれは、と。
希望はないんか、楽しい事はないんか、良い事何もないのかと。怯えておののいて暮らせと。
で、優しい私、てか。
とまぁ、さすがにそれは言い過ぎでそんなつもりないのはわかってますけど、短絡的なのはそんな風にも見えるから気持ち悪かったのでしょうね。
※もちろん無理矢理ポジティブや洗脳的ポジティブは良くないです

自分は仕事だろうと病気だろうととりあえずは楽しもうとする性格です。
病気の相談を受けたら不謹慎にならない程度に楽しくやり取りするのを心がけるし、仕事なんかを人に教えるのも、まず楽しめるようになってほしいと考えて話をします。
だって、普通に考えたらしんどい事なんですもん。
せめて楽しくやらないと。(あ、けじめは大事)
と、常日頃公言しています。

病気になって、無理しないで、頑張らないで、などと言われた時に居心地悪く感じる事があるのも、「いや、俺は頑張りたいから。無理しているわけではないの!」と思っていても気遣っていてくれての事だから強く主張し辛くなってしまうという事なのでしょう。

すっきりしました。春だから。
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新年度が始まりました。
ネット上をはじめ色々なところで見聞きするのが「新社会人無理するな」的アドバイス。

色々な事件が背景になっているのは理解しています。
私自身、組織(会社)に対し滅私奉公なんて考え方はナンセンスなものだと考えています。
ブラックな環境なんて論外です。

ただ、それはちょっと違うのでは、というものも結構目にします。

あまりにも極端で。時折書くように元々極論は嫌いですが、モンスターペアレント的な、悪い意味で増長する若者が出てきそうな言い草も見られます。
自分が気に入らない=ブラックだ、と曲解されそうな。

病気の特性上、患者界隈では「無理をしてはいけない」というのは当たり前の事でよく聞きますし、使います。
また、「頑張れ」という単語もよく悪者にされます。
これは、無理がそのまま致命的な状況に直結してしまう事と、不思議とこの病気を持つ人は無理しがち頑張りがちな人が多いから成立しているような側面があって。
きっと皆さんそれでも無理をしなくてはいけない、頑張らねばならない事もあると理解している前提だと思うのですよね。

それを、これから新生活、すなわち基準がない人に一律「無理するな」「頑張りすぎるな」はやっぱり違うんじゃないかなと思います。
理不尽に感じた時やしんどい時は、第三者に相談する、とか具体的な事なら良いのですけど。
だって無理したくてできる、頑張りたくて頑張れるというのは若い・健康だからこその場合もあるわけですし。

再度書いておきますが、「人」を都合の良いものとしか見ていない、扱わないような所は論外です。

とまぁ、一見真面目そうなのにスーツで腰パンな若者を眺めつつ書いています。
いや、眺めているから書いてています。
そんなものです。


次回へ続きまず
「この世に無駄なんて存在しない」
「無駄を愛する」
「無駄に生きるな 熱く死ね」

などなど色々言われる"無駄"様。
ここのところは断捨離やらミニマリストブームで散々な扱いの"無駄"様。

先に上げた言葉はそれぞれ矛盾しているようでどれも気持ちはわかります。
基本せっかちで効率を求める自分ですが、しょうもない事大好き。
そしてモノが捨てられないタイプ。

そんな自分は、不要であるものを無駄だと一緒くたにせず、愛すべき無駄と無くすべき無駄を判別するために、まずは"無駄"様の個性を尊重してあげたい。

そもそもその時は無駄だと思っていた事が後々役に立つなんて経験もよくある事なのではないか。
患者生活なんてまさしくそうですよね。

いつものごとく、断定してしまわず場面場面に応じて都合の良い解釈を選択すれば良いと思います。

とりあえずなんでも断定してしまう極論は好きではありません。
そんな話はまた次回以降。

予告通り、前回の続きです。

自身の事を伝える事、理解を得る事。

難病、障害とはっきり診断や認定をされていても、伝える事も、理解を得るのも難しい事です。
ましてや障害とは認定されない、病気をはっきり診断はもらえないなんて状況の方にとってはもっと深刻。

でも「気付いてもらう」という姿勢(≒何故わかってくれないの!)では、色々な意味でしんどいと思います。

伝える事も、受け入れられなかった時の事も、辛いのは当然なんですよね。
でもそれは、どんな事だってそう。
なのに、自分で自分自身を他人とは別、特別扱いにしてしまって、悪循環してしまう。

結果、残念ながら周囲に敵意を抱いて自ら遠ざけてしまう人もいるのが事実。

合う人(環境)は合う、合わない人(環境)は合わない。
そもそも他人同士で相互理解なんてそう容易な事ではない。
病気だ障害だ無視してもそんなシンプルな事なのに、変に理由をつけてわざわざ自ら間口を狭める事なんてしなくても良いはず。

色々な状況があって一概には言えませんが、やはり捉われすぎるのはよろしくないのだと感じます。
「どうせ」と諦めるのはまず良い方向には流れない。
その前に一回前提を取っ払って単純に考えてみてほしいと思います。
結果、少しでも楽になる事があれば幸い、くらいに気軽に。
ただでさえややこしいモノ抱えているのです。
わざわざ難しく生きようとしなくて、楽しちゃって良いと思います。


最近、目に見えにくい障害をテーマに考える機会がありました。
その中に「目に見えにくい違いに気付くにはどうすれば良いか」という項がありまして。
言葉通りの意味で捉えるのであればなかなか無茶だと感じます。

まず、題材となった映像作品が、障害を抱えた方が、それを職場には伝えずに働いている状況でした。
伝えてもいないし、見てわかるものでもないのに気付けというのは、気付いて欲しい側も、気付くべきだと考える側も傲慢だと感じます。
(誤解ないようにしますと、作品にはそういうニュアンスはないですし、ドラマとして良かったです)

ちなみに伝えていない理由は、父親が伝える事に反対したから、という事でした。
さらっと言われて掘り下げもなかったですが、自分はここが結構なポイントだと思います。
伝えるべきなのはわかっていても伝えられないなら、その障壁は何なのか。

そういう視点では、もちろん考える事の意味は大きいのですが、せっかくの機会を「気付き」にもっていくのは少々安直で勿体ないなように感じました。

仮に気付いたとして、障害持っていますか、病人ですか、なんて聞けないですよね。
極端かもしれないけど、失礼ではない聞き方は難しく、当たり障りない聞き方だと引き出せない。
何事にも言えますが、相互で歩み寄らないとそうそう進展する事ではないと考えています。

ここから先は話の方向性変わりそうなので、
多分次回に続く。という事で。




(補足)
ちなみに自分だって「大きいくせに」「男のくせに」の後に続く言葉には嫌な思いをする事は少なくありません。
でも知らない人からすれば仕方ないでしょうし、気付いてくれとか配慮しろとは思いません。

無理を強いられそうな事があれば理由を説明する。
それで駄目なら去るだけです。
幸い、これまでの人生でそこまでは至った事はないですけどね。



(さらに補足)
ちなみに、マインドシーカーは四半世紀以上昔のゲームです。
超能力育成がテーマで、理不尽な難度で有名です。鍛錬でどうこうなるものではなく(おそらく)運頼みだけなので。
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モ 氏
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自己紹介:
1995年16歳で皮膚筋炎発病。
今に至る。
略しすぎなので詳細は自サイトにて。

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